2015秋〜2016春

リビング(2011年4月〜)2度目の復帰後

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卒園、そして入学

ついに下の子が卒園しました。
上の子と合わせて9年間、保育園にお世話になりました。
保育園というのは、単に子どもを預ける場所ではありません。
    たぶん、ただの預け場所だと思っている人が多いから、
    保育に関する政策の場で「受け皿」なんて言葉が出ちゃうんだろうなあ
子どもにとっては、自宅よりも過ごす時間が長いかもしれないところで、
たくさんの経験をして成長する場です。
もしかしたら、親が働くということについても考えていたかもしれない。

    娘が小学三年生の時、「おばあちゃんは何の仕事をしてたの?」と聞きました。
    専業主婦だったので、そう答えたら、
    仕事しにいかないなんてことがあるの??   と驚いていました。
    娘にとっては、ものごごろついた時から、周囲のお母さんたちはみんな、
    何かしら仕事をしている人がほとんどでしたから、そういう感覚なのでしょう。

私にとっても、保育園生活の中で、
子どもがいる状態で前向きに仕事をする技術と心 
みたいなものを養った気がします。

私の住む町は、東京都では非常に珍しく、
基本的に認可園の保育園待機児がいません。
1歳児はちょっと混んでますが、
0歳なら、就職活動中でも入れますし(一定期間内に就職しないといけませんが)
5歳でも中途入園する人がいます。
パートタイムでも問題なく入れますし、むしろパートの人の方が多いかも。

待機児童問題は、本当は児童福祉法違反なんですよね。
保育を必要としている子どもには、保育を提供しなくてはいけないのですから。
「保育園落ちた日本死ね」というブログに対し、
行政によりかかりすぎだ という人もいますが、
保育園に子供を入園させて、職場復帰を予定する  というのは、
決して行政へのよりかかりではなく、
寄りかかるというほどのこともない、当たり前の営みなのです。

さてしかし、私の町のように待機児がいないと、そうした危機感は持ちにくいです。
どこか対岸の火事のような感覚があるかもしれません。
激戦区の町に住んでいる人でも、
どうにか子どもが入れて、いろいろ大変でもとにかく卒園すると、
ああ大変だったな   で終わってしまうかも。
卒園するころには仕事もトップギアに向かうわけですから、
待機児について真剣に憤ることもなくなる。

でも、「通り過ぎた問題」とだけ思わないようにしたいです。
だって、このまま変わらなかったら、
あと十数年したら、私の子どもが子どもを産んで、
祖母として、現役会社員なのに仕事を休んで孫育て  ってこともあり得るのですから。



2016年3月

インフルエンザからの胃腸炎で、2月後半を棒に振りましたが、
復帰した3月、すぐに保育園の「お別れ遠足」がありました。

男の子なので、特にキャラ弁は求めない。肉が入ってれば良し。
しかし、「まっくろくろすけのクッキーを作ってほしい」
というので、作りました。   周りの子や先生にも配りたいと。

最後の遠足、とても楽しめたそうです。
娘の方は、二分の一成人式。
もともとのスケジュールでは、私は行けそうになかったのですが、
小学校もインフルエンザで学級閉鎖などがあり、
スケジュールがずれて、行くことができました。

絵は、実物大の自分。
もう、身長は私よりも高いのです。(私が低い)
10年後の自分へ という作文がついています。

娘は宝塚大好きですが、タカラジェンヌとして舞台に立ちたいのではなく、
宝塚の脚本家になりたいそうです。
だから今は勉強する、と。

娘も4年間通った学童保育、この3月で卒業です。
というわけで、息子の卒園式です。
卒園式も泣けましたが、
3月31日の、最後のお迎えの方が泣けました。

保育園に行かなくなる日が来るなんて、
想像もつかなったのです。
なんか、永久に通っているような気がしました。

でもちゃんと育つんだなあ。

子ども部屋を作りました

ずっと子どもの部屋は、ありませんでした。
ダブルベッドとシングルベッドをつないで、私と子供たちが一緒に寝ていました。
勉強机もリビングの一角に。

でもここで、子どもの部屋を作ろうと。
間取り上、子どもの個室にはできません。
二段ベッドを中心にして、なんとかしたいと思いました。

まずは色画用紙で、うちと家具の模型を作りました。
右側の水色の家具を入れている部屋(夫のものが多い)が一番広いので、そこを子ども部屋にする計画。
物を減らさないとね。
本やDVDをかなり売り飛ばしました。

大学生の時に縫ったフェルトのジャケット。
処分。
大学の卒業制作ドレス。
処分。

ウエディングドレスとお色直しのドレスも、自分で縫ったものですが、処分。
こんな感じになりました。
二段ベッドを置き、奥に学習机。
映っているのは娘の机です。
背中合わせに、息子の机もあります。
間にカラーボックスを数個並べ、本やおもちゃを入れます。

クローゼットは二人でナワバリ分けし、
下の方にはプラスチックの引き出しを入れました。
二段ベッド、上が娘、下が息子。
ゆくゆくはカーテンを付けるかもしれません。
ベッドの中でプラレールを組み立ててるんですけど…


病時×仕事 の 死闘9年間!!


最初の復帰の年は、本当にしょっちゅう、仕事にならないくらい、熱を出して早退していました。
教員十年目の研修なるものとも重なり、研修のために自習を出すこともあったのですが、
それに加えて子どもの病気でも自習。

普通の保育園は、熱のある子はいけません。
夫は都心の会社勤めで、急な休みが取れない。
私だって簡単に休めるわけではないけど、休むしかなかった。
夫への憎しみが募ることもありました。
  育児に協力できない夫なら、要らなくない?
  言われたことしかできない人なら、要らなくない??
  言われるまで待っている姿や、言ってくれればよかったのにと言われるたびにキレましたね。


子どもの熱が高い間は、やはり親がついていたほうが良いのです。
薬や医療では説明がつかない、親による安心感は回復に役立つように思いました。
    (だから、今は病児保育室があるけれど、一日くらいは休める仕事状況が一番、いいんですけどね)

子どもの熱が下がったからと言って、保育園に行ったらまた、ぶり返すこともあります。
ワンクッション置きたい。
実家の母に頼んで、何度も来てもらいました。
1回2万円払って、病児OKのベビーシッターに来てもらったりもしました。
    (もしもに備えて、育休中に入会しておいたのです)
シッター料が月10万円になったこともあります。
税控除してほしいと、本当に思いました。

復帰2年ほどたった時、市の事業として病後児保育室ができました。
1日2500円で給食ももらえる。体調に応じて柔らかく調理してくれたり。
朝8時から夕方5時までなので、若干の仕事遅刻早退はしないとなりませんが、
とにかく授業に穴はあけずに済みます。
何が困るって、私は家庭科なので、調理実習の材料が来てるのに子供が熱を出すと困るのです。

病後児保育室は本当に助かりました。
高熱の時は仕方ない、とにかく夫婦どちらかが休む。
そのあと病後児保育室で1〜2日過ごし、万全の状態で普段の保育園に復帰。

だんだん熱も出さなくなってきて、だいぶ落ち着きました。
実家の父の足腰があやしくなり、母も一日家を空けるのが難しくなってきたところです。
ベビーシッターも利用せずに済むようになりました。
上の子は小学2年生からだいぶしっかりして、留守番は問題なくできるようになりました。
私も自宅から徒歩で通える学校に異動し、
上の子が風邪で休んだ時は、ひとまず家に一人で置き、
授業に入っていない時間帯に一時帰宅したりしました。
上の子が小1〜小4の途中までは、夫も隣町の会社に自転車通勤でしたので、
送迎もお互いに協力できたし、病時もなんとかなったのです。
やはり二人とも会社と自宅が近いのって大事です。


病後児保育室は、感染症の子どもはあずかれないので、
インフルエンザにかからないように毎年祈っていました。
運良く、2人ともかからないまま、下の子が年長組の、あと1カ月で卒園というところまでこぎつけました。
今年は二人とも、一度も熱を出さなかったなあ・・・ とホッとしていたところに、
月曜の昼、保育園から電話。
インフルエンザBでした。

今年の三学期は、月曜に祝日・大雪・小学校の説明会と重なり、月曜午後の授業が1回もできていないのです。
5回予定していた授業を3回に縮めて授業計画を立て直していたのですが、
また月曜午後の授業ができない・・・・!!
でもインフルエンザだから仕方ない、早退して行くしかない。
    このころ、夫は会社が丸の内に移転しており、通勤に2時間近くかかって
    保育園送迎も全くできなくなっていました。
家庭科は2時間連続授業なので、2回授業ができれば4時間分の試験範囲が作れる。何とかなるというか、しないと。

インフルエンザの熱そのものはすぐ下がりました。
夫も翌日は休みを取ってくれて、火曜の授業はできました。
水曜は私が休みましたが、たまたま水曜は3年向けの授業だけで、3年は卒業間際で授業がなかったのです。
木曜と金曜は、市内にできたばかりの病児保育室(インフルエンザOK。ただし3人で満室)
にお世話になりました。

久しぶりに病児の騒動を乗り切り、
月曜日は大事を取って、病後児保育室に入れました。
過保護かな〜  とも思いましたが…
そしたらまたも、病後児保育室から電話!!     
吐いてる  と…
今回こそ、月曜午後の授業は絶対にやらなくてはならない。
授業が終わったらすぐに迎えに行くから、と伝え、様子を見ていてもらいました。
病後児保育室だから見てもらえたのです。普段の保育園だったら絶対ダメでした。

即刻、小児科へ。
インフルエンザで弱ってたところに、胃腸炎を起こしたらしい。
火曜以降の授業は、入試のために全部つぶすことになっていました。
  (火曜は大掃除、水曜入試、木金は採点で、とにかく生徒はほぼ来ない)
この週は全部休ませてもらう可能性があることを教務部に話しておきました。
家族にも感染を予防しなくては…

下の子はどんどん弱り、火曜日の午後には手足が冷たくなり、反応が鈍くなりました。
脱水しているかもしれない。
再受診して、点滴を受けたらずいぶんよくなりました。
現金なもので、本人は気分が良くなったので、
「次のご飯は〜?」ばかり言っていました。
   でも、水分 → おかゆ  → うどん → 徐々に通常食  と、2〜3日かけて戻さないと。
給食の献立表を見ながら「ほんとはきょうはチキンカツだったのに〜」とか言ってましたが。

そんな感じで、保育園最後のバレンタインデーから2月いっぱいは、すべて欠席してしまいました。
3月に入ってようやく登園でき、
最初に教室で会った同級生の女の子に、「わあ、これたんだ〜!」とギューしてもらったら、
感激のあまり泣いてしまっていました。

そうしてようやく、通常運転に戻れたのです。

こんなことの繰り返しです。
仕事への責任感と、子どもについていたいという気持ちで引き裂かれそうでした。
これって、単に保育園には入れれば解決する問題ではないのです。

自助努力としては、ピンチの時に職場に快く(?)休ませてもらえるよう、
日常からしっかり仕事をして信頼を得ておくこと。
家族の中で、特に夫に当事者意識を持ってもらい、家事育児の技術を付けること。
(サポーターならいらない、パートナーでないとダメと何度言ったことか)
お金で解決できることはすること。
また、夫に家事育児の分担をする上では、自分の中でもキャリアプランがあった方がいいと思いました。
いつまでも職場で、二の線で存在感なく、「当てにならない人の扱い」に甘んじるのか、
いずれトップギアに入れるのか、ということです。