(これは、2004年8月2日に見学に行った記録で、まったく同じものが「寝室」のページにも載っています)
高田馬場にある、「お産博物館」へ行ってきた。
普通のマンションの一室(となりの建物は、博物館長の自宅)なので、
見学は予約制。
私は集英社から新書で出ている「お産の歴史」という本を読んでから、
日本の産科学が、江戸時代からだいぶ優れていたことを知り、興味を持っていたのでした。
高田馬場の駅で降りて、早稲田通りではない方の大通り(早大理工へ続く坂道)を登り、
ミスタードーナツのあたりで左に折れて、点字図書館のちょっと先。
私は学生時代、早大理工のオーケストラにいたので、多少は道がわかる。
おお懐かしい、バー「タイムマシン」まだあったか・・・
(等どいう説明では、誰も到着できないか・・・)
この、右側の階段を上った、二階の一室が博物館。
たくさんの本と資料が並べられていること以外は、
本当に普通の家のようでした。
館長さんは、年輩の女性。多分、私の親よりも年上。
館員さんは、館長さんの妹さん。
お二人とも元助産婦、というわけではなくて、
自然なお産を広める「お産の学校」(両親学級)を開く場所としてオープン。
その後、お産に関する資料を集めた博物館を開いたとのことでした。
館長さんは、ラマーズ法がまだ日本であまり知られていなかった頃(昭和20年代)に、
本で独習して、痛みが少なく、体力を消耗しないお産が出来た経験があるそうでした。
館長さん・館員さんと話をしながら、見てみたかった「昔の出産用具」を見せていただきました。
なんでも手に取らせてくれる。
これは、江戸時代の産科学の本に出ていた挿し絵。
当時、ヨーロッパでは、胎児は足を下にして母胎に入っていると思われていたが、
日本ではすでに、頭が下になっていることがわかっていた。
江戸時代前期までは、難産の場合は子供はあきらめ、母体を助けるのがやっとだった。
(難産や死産の場合)子供は鉄のカギなどを使って取り出す。それは無惨なものだった。
ところが江戸後期に入り、どうにか子供も助けられないか、研究した人がいた。
鯨の骨でリング状のものを作り、子供の顎に引っかけて取り出すことに成功した。
これは母子ともにダメージが少なく、優れた方法であったので、
昭和30年近くまで(もちろんどんどん新しい方法は開発されたのだが)現場で使われていたそうだ。
これは、助産婦さんがお産の場に持っていった用具。
ピンセットやハサミなどの他、
麻の糸が入っている。
丈夫なので、へその緒を切ったあとは、これで縛っておいたのだそうだ。
へその緒を切るためのハサミ。
刃は鋭くありません。
鋭利な刃物で切ると、大出血するからだそうです。
知らなかった・・・
助産婦養成学校で使われていた教材。
お腹の部分がフタになっていて(妊娠線の絵まで描いてあって、リアル)
外すとこんな具合に、
胎児と胎盤が入っている。
昭和天皇とその弟宮様たちを取り上げたという、
ベテラン助産婦さんからの寄贈品。
明治時代の聴診器です。メロンみたいな桐箱に入ってました。
今のように、耳に入れて管を通して聞く・・という形ではなくて、
直接当てて聞くものだそうです。
なんと木製。
ブラジル製、妊娠〜出産〜後産〜授乳の説明ができる縫いぐるみ。
かわいい。
出産についての考え方は、国によってだいぶ違うものだそうです。
欧米では、出産の時は痛み止めを処方することが多いそうです。
ブラジルでは、半数が帝王切開だそうです。
帝王切開をする理由も、医療上・安全上の必要があったから・・・というわけではなくて、
「帝王切開をしないと、きちんとした病院で出産したことにならなくて恥ずかしい」という考え方なんだそうだ。
今、家庭科のカリキュラムがかわってきていて、「保育」の教科書からは
妊娠・出産に関する部分、「産まれるまで」がすっかり消えました。
どうした理由で消えてしまったのかは、よくわからない。
館長さんも驚いていました。
やっぱり、必要なことだと思うのです。
「保育」の授業では、子供の発達の様子とそのサポート方法を学ぶのがメインですが、
「自分に子供はいないのに? 自分は子供が好きでもないし?」とも考えがち。
もっと大きな視点で、
「次世代を育てるのは、全ての大人の責任である」というところまで持って行くには、
命を大事にすることを学ぶのが、もう一つのメインになってくる。
妊娠・出産の部分を取り外したら、中途半端な内容になってしまうと思う。
こうしてお産の歴史を見てみると、
「安全な出産」「母子ともに救える出産」「身体の負担を軽減できる出産」を目指して、
代々の産科学に携わる人たちは努力してきたのだと、よくわかります。