陣痛室へ

おかあさんになった日 トップへ戻る

おしるしのあった12日、
「もしこのまま出産になったら、しばらくシャワーとか使えないから、13日中にシャワー浴の希望を出そうかな」
とか、
「帝王切開になっちゃうのかなあ。せっかく、妊娠線予防クリームのおかげで、一本も妊娠線ができなかったのにな」
などと、
やたら気楽なことを考えていた。
痛みは大したことがなく、この程度で出産まで行けるんならラクだな、ぐらいに考えていた。

ところが、13日の明け方から、急に痛みが強くなってきた。
何しろ朝5:30に、痛くて目が覚めたのだから。
時計を見ると、7分おきに1分ほど痛くなる。
痛いときは身体を固くして、息を速くして耐えていた。
(あとでわかったのだが、こういう呼吸をすると、胎児が酸素不足になることがあって危険)

それでも一応、本当の陣痛かわからなかったので、
(あとでわかったのだが、こういうときこそ、ナースコールを使うべきだったのだ)
いつものように、病院内を散歩することにした。

入院以来数日間、私は朝6時に5階の病室を出て1階の売店まで歩き、
お茶などを買って、自宅と実家に電話し、階段で病室に戻るのを日課にしていた。
そして5階の洗濯室で、洗濯機を回す。
驚いたことに、この時間でも1階の喫煙室は、入院中のおじさんたちで満員。
いいのか、おじさんたち? 内科の患者だったら笑えないよ。

ところが、今日は痛くて、とても階段を歩ける状態ではなかった。
どうにかお茶は買ったものの、電話をかける元気はない。
シャワー浴希望なんてとんでもない。
洗濯機はムリヤリ回した。  これまでとは、痛みのレベルが違う。
インターバルの間は何事もないのだけれど。
これが本当の陣痛なのではないか?  インターバルの5分間を利用して、全てのことを済ます。

朝8時頃にノンストレステストを受け、この痛みが本陣痛であることを知る。
グラフの山がだいぶ大きくなっていた。
でも、「まだまだ産まれるレベルまで来ていない」と言われた。

午前11時にドクターの診察を受け、子宮口が3センチ開いていることがわかった。
多分、今日が出産になるので、家族に連絡を取っても良いけれど、
今日はお産の人が多くて分娩室が混みそうだし(満月のせい?)
途中で帝王切開に切り替えるかもしれないので、
夫の立ち会いはできなくなるかもしれない、と言われた。
この病院では、「夫婦揃って母親学級を3回受講したカップルに限り、立ち会い出産ができる」ことになっている。
私たちは、夫と3回受講していた。

この頃、すでに陣痛は5分おきに1分半痛む間隔になっており、
インターバルの3分半で全てを片付けなくてはならなくなっていた。
自宅に電話したが、ダイヤルして、呼び出し音が鳴って夫が電話を取り、話して、切る。
ここまでを3分半でやるのだ。
これは難しい。
話している最後の方は、「痛いから切るっ!」と言い捨て、受話器をガチャンと落とした。

帝王切開かもしれない割りに、昼食を食べる許可が下りた。
同じ病棟に、帝王切開を終えた人がいたので聞いてみたけれど、
彼女は「予定切開」というもので、陣痛が起きる前、出産予定日のだいぶ前に手術をしたのだそう。
前夜から絶食して手術に臨んだそうなので、私が昼食を食べているのを不思議がっていた。
私も、自然分娩なら食べておかないともたないし、
帝王切開なら食べるのはまずいし・・・と、どうして良いかわからなくなり、
とりあえずパンと牛乳だけ食べた。

午後に入り、自分の病室から陣痛室に移動した。
分娩一歩手前、陣痛を耐えるための(?)控室のようなものである。
またノンストレステストを受けるのだが、かなりきつい。
このテストは、基本的に仰向けの姿勢で受ける。でも陣痛中、仰向けでいるのがすごく苦しいのだ。

息をサッと吸って、フーッと長く吐く。
陣痛を呼吸で和らげる方法は、そんな、オーボエを吹くときにそっくりなものである。
陣痛は5分おきになったが、ナース(また一番厳しいナース・・・)は
「まだ私と会話できるので、産まれません。本番は会話どころじゃなくなります」と言っていた。

3時頃に夫と、実家の母が来た。
母は立ち会いではないのだが、陣痛室に入ったら、行きがかり上、出られなくなってしまった。

本当の陣痛は、よく言われるような「生理痛が強くなった感じ」でも「便秘のあと下痢が来る感じ」でもなかった。
もちろん、これまでの私の前駆陣痛とはまったく違う。
強さが違うのではなく、痛み方もまったく違う。
陣痛は陣痛だ!  それ以外の何者でもない。
「こんな感じ」なんて言葉では表現できない。「あーーーーっ」としか言いようがない。

それでもムリヤリ表現してみると、
まず腰がずっしりと重くなる。痛いというより、来たーって感じ。
そしてその重みが肛門を通り、下腹部へ抜けていく。
陣痛のクライマックスの頃は、これがすべて痛く、
手先と足先を思い切り引っ張られている感覚になった。

夕方5時に診察を受けると、子宮口は8センチ開いていた。
全開で10センチなので、かなり進んでいる状態。
この頃から、呼吸で痛みを和らげられるレベルを超えてきた。
痛んでいるとき、夫や母に身体を触られるのや雑談の声が妙に気に障り、
「触らないで!」「黙って!」と言ってしまった。
そして、痛みのインターバルの間に水分を補給したり、腰を指圧してもらう。
揉んでもらうとその振動が気持ち悪くなるので、腰を押してもらうだけ。

ノンストレステストはときどき付けていたのだが、
陣痛グラフは針を振り切っていた。
そして、そのグラフの山曲線の通りに痛みが襲う。
陣痛は、最終的には絶え間なく来るものだと思っていたが、
実際には私の場合、最後でも3分おきに2分痛むというパターンだった。
不思議なことに、インターバルの1分間を、ウトウトして過ごしてしまうことも多かった。

本当は身体を横に向け、海老のように丸めているのがラクなのだが、
陣痛が来るとどうしてもその姿勢がとれない。
横向きに横たわりつつ、手は傍らの枕をつかんでしがみつき、
足は不自然に力が入って伸び、全身が反っくり返ってしまう。

ツワリで入院しているとき、何度もお産の人の悲鳴を聞いた。
こんな悲鳴を上げるものなの?
人間じゃないような叫び声だ。
大げさなんじゃないの?
私は悲鳴なんか上げずに出産するわ!  と思っていたが、
多分、歴代の患者の中でも5本の指に入るぐらい、大きな悲鳴を上げていたのではないかと思う。
陣痛も後半戦に入ると、呼吸で痛みは柔らがない。
叫んだ方が、ラクになる気がした。
それで、ずっと「あーーーーっ」と叫んでいた。
初めはアルト音域の「ミ」ぐらいの高さだったが、最後はソプラノ音域の「ラ」までいった。
母は「いたたまれない・・・」と困っていた。

痛くてもいきんではいけないので、とにかく痛みを逃さなくてはならない。
子宮口全開の前にいきんでしまうと、最悪の場合「経管裂傷」といって、
子宮の出口などに裂傷ができてしまう。これを縫うのはとても難しい。
しかしだんだん、子供が挟まっている感覚になり、「もう出ちゃう!」と思った。
痛みに耐えながら、なぜか、
「沖縄戦のただ中でお産を迎えた人は?  逃げていた戦後の満州の人は?  隠れていたユダヤ人は?
 産婦の悲鳴や赤ん坊の泣き声が疎まれて、家族の手で殺したなんて話もあった・・・」
なんてことを考えていた。
今は叫び放題で、ラクな世の中だ・・・と。

7月13日は満月のせいか、お産が多くて、私が4人目だった。
陣痛室の隣の分娩室も混んでいた。
同時に2人が入っていて、どちらもなかなか産まれない様子だった。
もし、私がこの人たちを抜かしてお産が進んでしまったら、私はどこで出産するのだろうか・・・?

そうこうするうちに、分娩室に入っていた2人の方々も無事に男の子を産み、
カラになった分娩室に私と夫が入ることになった。
もう夜の9時半。
今朝、陣痛が始まってから、すでに16時間経っている。

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